◇ ◇
夢から覚めると、ここねは涙を流していた。
ここねがいるのは見覚えのある街中でもましてや荒屋(あばらや)のある山でなく、自室のベッドの上だ。
体を起こしてから、ここねはゆっくりと肺にたまった空気を吐き出す。
「ふぅー……」
まだ動悸がおさまらず、ドクンドクンという心臓の音がここねの中に響いている。
さきほどの夢は、ここねが謎の病気に罹ったつきねを心配するあまりに見てしまったのだろうか。
「鬼の……二人の姉妹を襲った呪い……」
口に出してみて、ここねは子供の時に母から聞かされた美癸恋(みきこい)町に伝わる昔話を思い出す。
詳しいところまでは覚えていないけれど、そっくりだとここねは感じた。
ここねはベッドから出ると、日記帳を開いて夢での出来事、知り得たことを書き出していく。
いきなり鬼の血を引いた姉妹の夢を見ただけなら、ここねも考え過ぎだとすぐ忘れようとしたかもしれない。
けれど、ここねがよく知るカラオケ店がある通りを歩いていた姉妹も同じような症状が出ていた。
「つきねの原因不明の病気って……もしかしたら」
この町にしか起きない風土病めいた病は、夢を信じるならば治療法もないようだった。
やはり『呪い』なのではないかとここねは考えてしまう。普通の人ならば、夢で知った情報と妹の病気を結びつけて呪いだなんて言わないはずだ。
しかし、ここねは二年ほど前に不思議な経験をしていた。
高校受験を控えた冬の真夜中のことだ。
自分の部屋にいたはずなのに突如として、ここねは人の気配がまったくない美癸恋(みきこい)町に街中に放り出されていたことがあった。
ふと空を見ると、紅い月がここねを見下ろしていた。
紅い月の下には鈴代姉妹だけ。
今思い返しても奇妙な体験だったが、ここねには夢ではないという確信もあった。
一番の理由はあの世界での傷が身体に残っていたから。
中学生の時の出来事が、この世には人智の及ばない物事が存在することをここねに印象づけた。
(シーンが飛び飛びの映画みたいだったけど、今見た夢だって、現実の……本当にあったことかもしれない)
ここねにとっては、軽視できないほど鮮明なものだった。
こんなこと言っても、誰も信じてくれないだろう。
ここねは持っていたペンを置いて、もう一度ベッドにもぐり込む。
夜が明けるまでは、まだまだ時間があった。
◇ ◇
「ここねちゃん……調子でも悪いの?」
「え? そんなことないよ」
「なんだか箸進んでないし、ボーっとしてる」
いつも通りまねと部室で昼食を取っていたけれど、指摘通りここねの弁当箱の中身は半分くらい残っている。
「ご飯はしっかり食べないとだよ。ここねちゃんまで体調崩しちゃったりしたら、私イヤだからね?マネージャーの仕事として体調を含めた生活習慣の管理も視野に入れるしか……」
冗談なのか本気なのか分からないトーンで、まねがそんなことを言う。
「いやいや、越権行為だよ!? プライバシー大事!」
ここねは玉子焼きを口に入れた。ほんのり甘みがある。
この間見た夢に出てきた姉妹たちの悲しい結末が、ここねの頭から離れない。
正確には、あの夢につきねを助けるヒントがあるのではないかとついつい考えてしまうからだ。
そのせいで、授業を疎かにしているつもりはないが、集中はできているとは少し言い難い。
「まねはさ、この町に伝わる昔話って知ってる?」
「うーん……そんなのあったっけ?」
「優しい鬼の姉妹が出てくるんだけど、妹の方は呪いで死にそうなの」
「何それ、すごく悲しいやつ……! でも、急にどうして昔話?」
この様子ではまねは知らないようだ。
「小さい頃に聞いたなーって思い出しただけ」
ここねは適当な理由で誤魔化した。お伽噺(とぎばなし)に出てきた呪いが、つきねを苦しめている原因かもしれない……などと言っても、信じられるはずがないから。
予鈴のチャイムが鳴る。
「あ、教室戻らなきゃ。夕ご飯はちゃんと食べてね」
「それは大丈夫。カレーだから!」
溌溂としたここねの返答に、まねは苦笑を浮かべていた。
つきねに効果的な治療法はおろか、病名すら分からないまま日にちだけが過ぎていき、日曜日を迎えた。
ここねの中で、とある想いが日に日に大きくなっていく。
今は父が運転する車で病院に向かっている最中だ。
今日は珍しくつきねのほうから「おねーちゃん、来る?」とスマホにメッセージが届いていた。
ここねがほぼ毎日当然のように通っていたせいもあって、確認されるのは初めてだった。
ここねも、その時はわざわざどうしたのだろうとは思ったが、家族でお見舞いに行くことを提案したのだ。
しかし、せっかくつきねと対面したというのに両親は手続きやら医師との話があるとかで、退室してしまった。
(何かあったのかな……?)
妹を不安にさせたくはない。ここねは話題にもせず、
「つきね、なんか私にやってほしいことない? 大サービスしちゃうよー」
「お見舞いにも来てもらって、これ以上お願いなんてできないって。それよりおねーちゃん、しっかり休んでるの?」
つきねは心配そうにここねの顔をじっと見つめてくる。
「私は大丈夫!だいたい、つきねが元気になった時に私が元気じゃなかったら、困るじゃん?」
これは、そうであったらいいという小さな願望であり、もしかしたら嘘になってしまうかもしれない言葉。
ここねは大切な妹を死に至らしめる呪いから何としてでも守りたい。だから、どうしてもあの光景を忘れられなかった。
もしつきねの高熱が『呪い』のせいだと言うなら、つきねからその厄災を取り去ることができるのではないか。つきねを助けることができるのではないか。
(きっとあの夢と同じようにすれば、助けられる……)
そう——あの鬼の姉妹のように。姉が妹にしたように。
自分の手をつきねの胸へと伸ばして、呪いを奪えばいい。そうすれば、つきねが苦しむことはなくなるはずだ。その代償に、ここねは命を失うかもしれない。それは間違いないことだろう。それでも!
「おねーちゃん、なんか嘘ついてる……」
「……っ!」
何とか声は出さなかったが、ここねは表情の強張りを隠せたかは自信がない。
「…………」
「おねーちゃんのことだから、つきねを喜ばせようと変なこと考えるでしょ?」
「えへへ。バレちゃったかぁ」
ここねはバツが悪そうな表情を作って見せた。
すると、つきねは枕の横にあった音楽プレイヤーを手にする。
「気持ちはすごく嬉しいよ。けど無理しないで。おねーちゃんが貸してくれた音楽にパワーもらってるんだ。聴きながらこの中のどの曲をおねーちゃんと歌うのか考えてると、楽しくて病気なんかに負けないぞーって」
「どの曲っていうか全部歌いたい説あります!」
「ふふ、おねーちゃん欲張り。だけどそうだね。全部やりたいね」
入院してからこんなに柔らかく微笑むつきねを見たのは久しぶりで、ここねはふと気づく。
「なんか良いことあった?」
「実は、一時的にだけど退院できることになったんだ」
「……本当!?」
「最近は熱が出ても、入院したばかりの頃みたいに高熱になったりしないし。それで今お母さんたち退院の手続き中」
「えー……なら、お父さんもここに来る前からつきねの退院知ってたの……?」
「うん。本当はいきなり家に帰ってビックリさせようと思って」
これで、つきねがメッセージで確認した理由が分かった。
少し不満はあるけれど、退院できるのはここねにとってもつきねにとっても、悪いことではない。
「やっぱりつきねは、おねーちゃんと一緒にじゃないと……」
「私もだよ。それじゃあ、退院祝いにお父さんに美味しいものを食べさせてもらおう!」
「それはハンバーガーしかないよね」
ここねは迷いなく断言するつきねに鈴代姉妹の「いつも」を感じていた。
「可愛くてリーズナブルすぎる娘で、お父さんは幸せ者だなぁ」
「期間限定の『月見つくねバーガー』もう少しで終わっちゃうし選択の余地はないもん」
「あはは。それじゃあ帰りにお店に寄ってもらわないとね」
ここねは、そんな「いつも」のつきねを取り戻すために——妹を呪いから守るために、
どんなことでもすると密かに決めていた。
◇ ◇
つきねが家に戻ってきて数日、幸い症状は悪化していない。
食後の歯みがきを済ませてリビングに戻ると、テレビからはニュースが流れていた。
「見て見て、おねーちゃん。今週、流星群が来るみたい。へー、毎年四月のこの時期に見えるんだ」
部屋着姿のままのつきねが椅子に座っており、テレビ画面には去年撮影した流れ星の様子が映し出されている。
「お願い事し放題じゃんって思ったら、ポツリポツリと星が流れる感じなんだ。流星群って言うなんかこう!ブワァーって大量の流れ星が見えるのかと……」
ここねはちょっとしたガッカリ感をつきねと共有する。
「わかる! これでも映像を早送りしてるんだって」
「つきね、熱はどう?」
「今日は平気。本当は学校にも行きたいんだけど……」
微熱で治まっているが、つきねが登校するにはもう少し様子を見て判断するとのこと。
「まだ油断しないほうがいいからねー」
深刻にならないように努めて言ったけれど、ここねは夢で見たあの呪いであることを警戒していた。
もしまったくの見当違いなら、ここねの笑えない笑い話ができるだけだ。
「私はそろそろ行くけど、いい子で待ってるんだよー?」
「うん。いってらっしゃい」
つきねに送り出されて、ここねは学校に向かった。
音咲高校の廊下を歩いていると、掲示板の前でまねの姿を見つける。
「おっはろー。まね何してるの?」
「これね。軽音部の張り紙ー。部員募集と活動場所、あとはYouTubeのここねちゃんたちチャンネルのURLとQRコードを書いてる。アナログなやり方だけど、まずは知ってもらわないと、始まらないし」
「おお……何から何まで。ほんと頭があがらない。頼り切っちゃって」
「いえいえ。……そうだ、つきねちゃんはどんな感じ?」
「一応退院できて、今は自宅で静養中。だからもう少ししたら学校に来れると思う」
「よかったぁ! すぐには無理かもだけど、三人で部活できるね」
まねがすごく軽音部を大事にしてくれているのが伝わってくる。まねは歌は歌わないけど、かけがえのない仲間だ。もしいなかったら、軽音部はできなかっただろう。
「だね」
そう返事をしながらも、もしかしたらまねの厚意と献身に応えられないかもしれないと思うと、ここねは申し訳なさと心苦しさでいっぱいになる。
(つきねの呪いを引き受ければ、いつか私は……)
歌と妹の二つは、ここねにとって飛行機の両翼のように大切なものだ。
しかし、意志は揺るがない。
どちらかにしか自分のすべてを賭けられないと言うのなら……。
——ここねの決意を形にするのは今夜だ。
◇ ◇
「今晩、満月なのかな?」
夜空を見上げながら、ここねの少し前を歩くつきねが呟いた。
今いる公園内——目の届く範囲には二人の他に誰もいないけれど、時おり遠くから自動車が走る騒音が聞こえてくる。
「んー、そうかも」
ここねが今朝話題に上がった春の流星群を見ようと、つきねを誘い出したのだ。
春と言っても夜はまだ気温が低い。
つきねには暖かい恰好をさせている。
「この感じ、なんだか小さい頃お母さんに黙って遊びに行った時に似てるね」
「帰ったらすごく怒られて、次の日オヤツ抜きだった」
うんうんとつきねが頷いている。
「今回も怒られるよ、たぶん」
「それはバレる前に帰れば。そんな遠くじゃないし?」
ちょっとした高台があるこの公園は、鈴代家がある住宅街の近くにある。
「おねーちゃん。この辺にする?」
近くにベンチもあるが、ここねたちは立ったまま流星を待つことにした。
「うん。テレビで見た感じだと、そんないっぱい流れるわけじゃないし気は抜けないね」
高台を風が吹き抜ける。雲もなく、流星を見つけるには好条件と言えるはずだ。
ここねはつきねと、夜空を見上げた。
しばらく眺めていると、一条の星が視界を横切る。
「あっ! 始まった!」
咄嗟にここねが指をさす。
「おねーちゃん、願い事は決まってる?」
「もちろん!」
その瞬間——夜空に明るい光が走り抜ける。
ここねたちは祈るように手を組む。
(ここねからあの呪いを取り除けますように……! 私がつきねを守れますように!)
ここねの願いは星に届いただろうか。
「つきねはどんなお願いをした?」
「おねーちゃんといっぱい楽しいことしたいって。歌をやりたいよ」
「そんなお願いなら、私が叶えてあげる。これから何度だって。——ずっと一緒なんだから」
ここねは嘘をつく。
「まず、つきねは病気を治さないとね」
音楽は——歌手はここねにとって叶えたい夢だ。
しかし、自分の夢と命を引き換えにしてでも、つきねの心臓から呪いを奪い去るとここねは決めたのだから。
ここねがつきねに一歩近づく。
「おねーちゃん?」
——すると、世界から切り取られたかのような感覚に囚われる。
◇ ◇
気がつけば、ここねとつきねは美癸恋(みきこい)町の街中に放り出されていた。
さきほどとは明らかに別の場所。頭上の白い満月が不気味に紅く染まっていた。
(二年前とそっくりだ……)
ここねの視線の先に立っているつきねは着ている服さえ、変わっている。
見慣れない可愛らしい服装。胸のあたりには大きな鍵がついている。アーティストのステージ衣装だと言われれば納得するかもしれない。
ここね自身もさっきまでと身にまとっているものが違う。
通りにある店舗のウィンドウのガラスに反射した自分の姿を見ると、ファスナーを思わせる装飾が目を惹く。そして腰のあたりで結ばれた大きなリボンにはどういう構造か分からないが、南京錠もついていた。
以前に体験した紅い月の夜と明らかに異なる点がもう一つ。
あの時は何もしていないのに乱れていた呼吸が、平常と変わらないということだ。
(あんなに息苦しくて……死ぬような思いもしたのに、どうして?)
むしろ今身体が軽くすら感じて、ここねは何とはなしにその場でジャンプしてみる。
その刹那、ここねの跳躍はビルの数階分はあるかという高さに達する。
「えっ!?」
驚きも消えぬうちにした着地も完璧で、ここねは足腰に痛みもない。明らかに尋常ではない身体能力であり、超常の力を思わせる。
(こんなに風に身体を動かせるなんて——)
この不可思議の連続と紅い月が、ここねに告げている。
『死』の呪いの実在性を。
(この町で起きる呪いはやっぱり本当に……)
そんなことを考えていると、ここねは妹が一言も発していないことに気づいた。
一瞬で別の場所に移動したり、急に服装が変わったり、極めつけはこの身体能力だ。驚かないはずがない。
「つきね?」
「…………」
さきほどは見慣れない装いに気を取れていて、ここねはつきねの異変に気づくのが遅れたのだ。
つきねは目の焦点が合っていないのか、ぼんやり視線を泳がせている。
時間の猶予はない、とここねは強く感じた。
妹を抱きしめるためでもなく、妹の手を引くためでもなく、妹から『死』の呪いを絶対に奪うためにつきねの心臓に届く距離まで近づく。失敗はできない。
ここねの真剣な瞳に光が宿る。
その瞳の色に似た桃色の幽(かす)かな光だ。
つきねの左胸の、さらにその奥に黒い靄が渦巻いているのが見えた。
まだここね自身は知らないが、魔眼を発動させた証であり、彼女につきねの肉体に存在する呪いの位置を知らせるものだった。
(できる……きっと私にもできる……!)
思い浮かべるのは夢にあった、妹の胸を手で貫くあのシーンだ。
呪いを取り除くことだけを強く意識するここねの手の内に、一つの鍵が現れる。
「……!?」
その鍵に導かれるように、ここねは鍵を握った手でつきねの胸へと一突きを繰り出すべく、脇を引き締める。
「つきねは……絶対守ってみせるから……っ!!」
ここねの突きは寸前のところでつきねに払われる。
今までのつきねでは考えられない反応速度だ。
諦めずにここねは同じ一突きを繰り出した。
「……!」
一瞬のうちに後ろに引いて距離を取るつきね。
身体能力が向上しているのはここねだけではないようだ。
ただ抵抗を示しても、やはりつきねの瞳には生気らしきものが感じられなかった。
ここねが攻撃したというのにつきねは無言のまま、つきねがつきねではないような別の存在に思えるほどに。
ここねは焦燥感を抱えながらつきねに迫る。
逃げられないようにつきねの動きを封じるため、ここねは攻撃を重ねていく。
今でもまだ自分で自分の俊敏な動きに驚いてしまうが、つきねからの反撃も本来なら女子高生の筋力で実現できるものではない。
鈴代姉妹の攻撃がぶつかり合う音が周囲に響いては消える。
(つきねと、こんなことしたくない……したくないから)
繰り出されたつきねからの一撃を避け、ここねはその腕を掴んだ——身体能力が激変した妹の心臓を確実に狙うために。
ここねは鍵を持った右手でつきねの胸に触れる。
すると、そのまま鍵と手が中に入っていく。
「痛かったら、ごめんね……つきね」
「んっ……」
つきねの心臓にまとわりつく呪いに鍵を差し込むと、ここねはゆっくりで鍵を回す。
「これで——」
カチリという音がここねの耳だけに届いた。
「……っ」
吐き出してしまいたい重苦しさがここねの内に溜まっていく。『死』の呪いを実感していく。
不快感を覚えつつ、ここねは脱力し前のめりになった妹の身体を抱き留める。
「つきねはもう大丈夫だからね……」
次にここねが周囲を見渡した時には紅い月の夜は明けていた。
服装も元に戻っていて、今二人がいるのは流れ星を見てきた公園の高台だ。
どれくらい時間が経っているだろう。
遠くから聞こえてくる人々が生きる音にここねは少しだけ安堵していた。
《おわり》
ココツキオリジナル小説
『月ノ心ニ音、累ナル。』
好評連載中
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