◇ ◇
鈴代ここねが音咲高校に入学して、半年が過ぎていた。
東京の――ここねが暮らす美癸恋(みきこい)町も少し前まで、夏の延長戦と言えるほ
どの暑さが居座っていた。けれど、十月も半ばとなれば秋の気配が強まってくる。陽が落ちると、だいぶ涼しく感じられる。
ここねはスマホで音楽を聴きながら、帰り道を急ぐ。
プレイリストも今はもう終盤。一周する頃には、自宅に着いているだろう。
最近ここねが聴いているお気に入りの曲は、今まさに歌いたい曲ばかりだ。そのせいか、ついつい口ずさんでしまうこともある。
もう別れてしまったが、途中まで一緒に帰っていたまねにさきほど少し注意されたばかりだ。
「気を付けてはいるけど、歌いたくなっちゃうんだよね。ん~んん~♪」
家につくと、ここねは自分の部屋より先にリビングに向かった。
「つきねー、ただいまー」
「おかえり、おねーちゃん」
リビングにはつきねが一人。中学の制服ではなく、部屋着代わりのマキシ丈のワンピースに着替えている。
パジャマではないので、まだ入浴は済ませていないようだ。
「最近帰ってくるの遅いけど、どうしたの?」
つきねが心配そうに尋ねてきた。
「あれ、つきねにはまだ言ってなかったっけ。来月の文化祭、軽音部としてステージで歌えることになったから、その準備してて」
「……そうだったの!?」
ここねの予想以上につきねは驚いていた。
「うん。でも、時間の都合で二曲くらいになりそう。選曲ほんと悩むー」
「わあ、本当に良かったね! 軽音部はおねーちゃんとまね先輩だけだし、体育館のステージ使えるかわからないって夏休み明けくらいに言ってから、無理なんだと思ってたよ」
自分のことのように喜ぶつきねに、ここねは胸を張ってみせる。
「ふっふっふ。それがおねーちゃんの人徳と人望がなせるワザだよ」
◇ ◇
つきねはジト目になると、すぐに事実を確認してくる。
「本当のところは?」
悲しいことに、最愛の妹はここねの言葉を少しも信じていなかった。
ここねもすんなりと白状する。
「まねがいつの間にかやってくれてました。なんかね、人数も少ないし機材とかの準備もそんなに手間はかからないから、軽音部に少し時間をくれませんかって交渉したみたい」
桜ヶ丘まねは中学校からの付き合いで、音楽を歌をやりたいというここねの夢をバックアップしてくれる大切な友人だ。音咲高校に入ってからも軽音部を作るのに協力してくれた。
その働きぶりはまさに敏腕マネージャーと言っていい。
今のところ音咲高校軽音部は、ここねとまねのたった二人で構成されている。
「まね先輩さすが」
つきねは感嘆の声を漏らした。
「うんうん、少数精鋭たる軽音部の強みだよね!」
「部員が少なすぎて、最初ステージ確保できなかったんでしょ……?」
「いいのいいの、私の軽音部は。今はこれで」
と、ここねは笑いながら言う。
(私の軽音部……かぁ)
つきねは姉の言葉を心の中で繰り返した。
さっき口にしていたように音咲高校の軽音部の創設者・発起人は、姉のここね自身だ。
入学してすぐにここねは、軽音部を作るために動いた。部活動申請書を作成するために、顧問になってくれそうな教師も探したそうだ。もちろんこの時もまねに手助けしてもらいながらだが。
幸い音咲高校は生徒に機会を与えるという方針で、申請条件が緩めだった。だから部として認められたが、その代わり活動はきっちり真面目にしなければならない。
ただ、その点に関してつきねは心配していない。
◇ ◇
つきねは軽音部が創設された日のことをよく覚えている――
その日、ここねは家に帰って来るなり、
「つきねつきねつきねつきねぇ~~!!」
喜色満面でつきねの部屋にやってきた。
「ど、どうしたの……おねーちゃん!?」
「聞いて聞いて。私、部長になっちゃいましたー! 軽音部の部長!」
「やったね……おめでとう、おねーちゃん!」
「このために辛い受験勉強も頑張ったからね。これで夢へ着実に一歩前進だー」
この時のここねの笑顔は、高校合格発表の時よりも嬉しそうでキラキラ輝いていた。
そして今、ここねは軽音部と共に、夢に向かって進んでいる。
歌手になるというはっきりとした夢。
それを実現させるための一歩を踏み出せる姉につきねは憧れを抱いていた。
自分にはまだ明確な夢や目標がない。だからつきねの目には一層鮮明に輝いて映る。
つきねは目標に向かって頑張るここねを応援したいと心から思った。
「文化祭、絶対に見に行くよ、おねーちゃん」
つきね自身、来年受験する予定の音咲高校の文化祭には、学校見学がてら行こうと思っていたが、ますます楽しみだ。
「なら一緒に見て回ろう、色々案内するよ」
「すごく助かる……行くの初めてだし一人で回るの少し不安だなぁって思ってたから。でも、当日の準備とかはいいの?」
「つきねと一緒に文化祭を回るのは準備みたいなもんだから!」
「すぐ適当なこと言う……でも、すごく楽しみ」
ぐぅ~と小さな音がここねのお腹あたりから聞こえてきた。ここねがお腹を手で軽く抑える仕草を見せる。
「お腹減ってたの忘れてた~。今日のご飯、何? つきねはもう食べた?」
「ううん。おねーちゃんと一緒に食べようと思って。そして今日のメインはお母さん特製のふわふわつくねだよ!」
「近頃、つきねの好物多くない?」
「去年はカレーの頻度すごく高かったからおあいこだよ。カレーじゃないとパワーが出ないーって」
「だって、カレーは主食だし。ちょっと手洗ってくるね、もう少し待っててー」
「あ、着替えてきていいよ」
「分かったー」
ここねがリビングを出ていくと、つきねは二人の茶碗と箸を用意するため、キッチンのほうに向かった。
◇ ◇
夕食後にお風呂を済ませ一息つくと、ここねはつきねの部屋を訪れていた。
頑張っている妹にココアの差し入れを持って。
「受験勉強、捗ってる?」
「んー……まあまあかなぁ?」
つきねは椅子の背もたれに体重を預けながら少しだけ伸びをした。
マグカップを受け取った妹の顔からは少し自信なさげな印象を受けた。
目的を持って頑張っていても、モチベーションを保ち突けることは難しい。
勉強しても成績や順位がすぐに上がるわけではない。ここねにも経験があるから分かる。
「あ、ココア美味しい」
「分からないところあったら教えるよ? 合格実績アリのおねーちゃんを頼って頼って!」
ここねは近づき、開いているノートと参考書を覗き込む。
「そう? なら、ここの数学の証明問題なんだけど……」
「Oh……mathematics」
「え……なんで急に英語?」
「勉強は……自分の力でやってこそ身につくと思う!」
前言を翻し、ここねは正論を盾にする。つきねは当然の抗議だ。
「おねーちゃんが言ったから聞いたのに……」
「あはは、数学だけはちょっと……」
ここねは人生の中で、数学のテストで四十点以上を取ったことがない。高校入試でも、数学は真っ先に捨てた。
ここねは話題を変えることにする。
「ひょっとして最近ちょっと集中できない感じ?」
「そんな感じかも……よくわかるね?」
「つきねのおねーちゃん歴も長いから、これくらいはお見通し! それで提案なんだけど、今度の休みに久しぶりにオラオケ行こう!」
『オラオケ』とはカラオケのことだが、ここねたちはそう呼んでいる。美癸恋(みきこい)中学校近くのカラオケ店の看板が『オラオケ』になっているためだ。
一見すると受験に集中しなければならない妹を誘惑する悪い姉だが、こういう時こそ気分転換が重要だとここねは考えている。
つきねは今、趣味のゲームも封印している。うまくリフレッシュできていないのではないだろうか。
「うーん……どうしよ。でもなぁ……」
案の定、つきねは悩んでいる。
ここは少し強引にでも息抜きさせてあげるのが、ここねの役目だ。
「今までみたいに何時間もつき合わせないから。気分転換も大事だよ?」
「……そうだね。おねーちゃんとのオラオケ好きだし」
「じゃあ、決まり! 早く週末になればいいのに!」
「なんだがおねーちゃんのほうが楽しみにしてる気がする」
苦笑するつきねも、きっと週末には笑顔で楽しんでくれる
――ここねの勘はそう告げていた。
◇ ◇
その週の土曜日。美癸恋(みきこい)中学校近くのカラオケボックスには、マイクを握るつきねとメロディに合わせて体を揺らすここねの姿があった。
歌い終わったつきねに、ここねがパチパチと拍手を送る。
「私、つきねの歌声大好きー。艶があるって言うの? 聞いてて気持ちいい」
つきねはストローに口をつけて、喉を潤している。
「ふぅ……そ、そうかな? 自分の歌はそこまで分からないけど、つきねはおねーちゃんの歌ずっと聞いていたいくらい好きだよ」
次の曲のイントロが流れ出す。
ここねが入れておいたのは、今度の文化祭で歌おうと考えている一曲だ。
「この曲、文化祭で歌うんだっけ? 実は今日聴きたいなって思ってた」
以前につきねとパート分けして歌ったこともある。鈴代姉妹お気に入りの歌だ。
(せっかくつきねとカラオケに来たんだから、つきねと一緒に歌いたい!)
そう思って、ここねはつきねにマイクを差し出した。
「ほらほら、つきねもマイク持って?」
「え?」
マイクを受け取るもつきねは少し困惑気味で、
「……おねーちゃんが歌いたかったんじゃないの?」
「うん。つきねと歌いたかったの! だから――」
つきねが続いてくれることを信じて、ここねは歌い出す。
すると、すぐにつきねの歌声が聞こえてくる。
そして――二人の歌声が重なった。
つきねとのタイミングはばっちり合っていて、ここねは心地よさを覚える。
つきねの方をちらりと伺うと、楽しそうに調子を取っている。
(この感覚、最高っ! やっぱりつきねしかいない!)
ここねの歌うテンションも思わず上がってしまう。
その後もここねとつきねは二人で歌い続けた。
どの歌もそれがその楽曲のあるべき姿であるかのように。
◇ ◇
久しぶりの姉妹カラオケ以降、ここねは時おりつきねを誘って息抜きに連れ出すことにしていた。
もちろん、風邪などで体調を崩さないように万全の対策をしてだ。
毎回カラオケというわけではなく、ちょっとした買い物でつきねの好きそうな雑貨を見て回ったりすることもある。
今朝はつきねが日直当番らしく、家を出る時間がちょうど同じ頃になった。
ここねは甲斐甲斐しく、つきねにマフラーを巻く。
「おねーちゃん、この時期にマフラーはさすがに早いと思う……」
しゅるりとマフラーを外すと、つきねは簡単にたたんで鞄にしまう。
「いやいや、油断大敵! 風邪を引いたら喉にも良くないし!」
「そうだけど……それなら昨日のオラオケもあんまり良いとは言えないんじゃ……」
ここねは慌てて、弁解する。
「だ、大丈夫だよ! カラオケのマイクとかは店員さんがちゃんと消毒してくれてるから。頑張ってる店員さんを信じて……!!」
つきねと一緒に歌いたいという自分の願望が、妹に悪影響を与えたら……と考えると、ここねも気が気ではない。
必死なここねの姿に、つきねが噴き出す。
「ふふ。そこまで言うならおねーちゃんと店員さんを信じるよ。それにね、この前の小テストの結果すごく良くなったんだ」
「うんうん、その調子で頑張って」
「おねーちゃんこそ文化祭のほうはどう?」
「ばっちり順調に進んでるよー。昨日も準備したし」
「そうなの? それなら、つきねをカラオケに誘わなくてもよかったのに。そっちの方が大事でしょ」
少し申し訳なさそうに言うつきね。
「私、音楽もつきねもどっちも大事なんだ。だから、気にしない気にしない」
「うん。つきね、おねーちゃんが歌うの楽しみにしてるね」
◇ ◇
音咲高校文化祭、当日。
十一月になり、空気が乾燥している日が多くなってきた。
校舎を出ると、時おり吹く風がだいぶ冷たい。
受験を控える妹だけではなく、ここね自身も喉のケアをしっかりしなければという意識が強くなる。
昼過ぎになり、続々と人が増えてきていた。
つきねを校門まで迎えにきたが、ここねの予想よりも来場者が多くてなかなか見つからない。
スマホを取り出そうとしたここねに後ろから声がかかる。
「おねーちゃん、お待たせ」
「全然待ってないよ。じゃ、まずは腹ごしらえ?」
「だね。ちょうどお昼時だし」
「料理研究部がカレーを出すのはリサーチ済み!」
「……つくねとか出す模擬店ないかな?」
「高校の模擬店に居酒屋はないので、ご容赦くださいませ~」
「つくねは居酒屋メニューじゃないもん! 大人から子供までおいしく食べられる料理だから!」
「あはは、ごめんごめん。行こっか」
きっと居酒屋のメニューにあるんじゃないかというツッコミは抑えつつ、ここねはつきねの手を引いて歩き出す。
掴んだその手は少しヒンヤリとしていた。
温めてあげたくて、ここねは妹の手を包むように握り直した。
料理研究部のカレーはここねを唸らさせるほどの出来だった。
ぜひともレシピを開示してほしいとここねは頼んだが、部員限定と却下されてしまった。
その後、ここねは来年のためにとつきねに学校施設を紹介しながら、文化祭の展示や出し物を見て回る。
「この後どうする? 何か見てみたいものある?」
「そうだなぁ。色々見たいところはあるけど、やっぱり一番は――」
◇ ◇
つきねが望んだのは軽音楽部の部室。
現在使われていない教室を使用しているので、普段は特に目を引くようなものはない。
しかし、
「え? まね先輩……何してるんですか?」
足を運ぶと、赤いジャージ姿の桜ケ丘まねが音咲高校の制服を畳んでいた。
「え? つきねちゃん……何も聞いてないの?」
「あれー? 歌詞どこに置いたか、まね知らない?」
つきねとまねが二人同時にここねを見る。
「あの……おねーちゃん?」
ここねはCDに付属していたリーフレット見つけ、つきねに渡す。
「あったあった! はい、本番前に歌詞確認しとこ。あ、それより歌を聴く方がいい?」
「いやいやいや……! 本当につきねちゃんに説明してないの!?」
まねが詰め寄ってくる。
「だって、文化祭のステージで一緒に歌おうなんて言ったら、つきね来てくれないかもしれないし」
「そうかもしれないけど……」
とまねが頭を押さえながら、ため息をつく。
不安げな表情でつきねが尋ねてくる。
「……ほんとにつきねも文化祭のステージ出るの…?」
「大丈夫大丈夫! 可愛いから許される!」
「や、つきね中学生なんだけど……」
「平気平気! 可愛いから!」
「……高校の文化祭だよ?」
「可愛いから!」
「はぁ……」
「つきねは歌もうまいし、心配ないって」
「そこ以外に心配がいっぱいあるんだけど……」
実はね、とまねが説明を始める。
当然のことだが、学校側に提出した書類ではここねとまねが歌うということになっており、まねの代わりにつきねに歌ってもらうという計画を進めていた。まねも鈴代姉妹の歌を大好きで、無茶と分かっていながら協力してしまった、と。
そしてつきねに制服を貸すため、まねは今ジャージを着ている。
「まね先輩も共犯者だ……!」
「ごめんね……! もしもの時はつきねちゃんの代わりに私が怒られるから」
まねは拝むように手を合わせ、つきねにちょこんと頭を下げる。
「あ、怒られる時は私の分もお願い!」
「ここねちゃんは一緒に怒られてよ!? 首謀者でしょ!」
反射的にまねがパシリとここねの肩を軽く叩いた。
ここねとまねのやり取りを見て、思わずつきねは笑ってしまう。
しかし、問題はステージだ。大勢の人の前に立って歌うなんて、つきねにはとてもできそうもない。
「行こう。一緒に歌おうよ、つきね」
ここねは、つきねに手を差し出した。
◇ ◇
つきねはその手を見つめる。
手を取らずに断ることだって、つきねにはできた。そもそも生徒でもない人間がステージに立つこと自体、校則違反なのだから。つきねが「やっぱり無理だよ」と、そう言うこともできた。
けれど――
つきねは、躊躇いながらも、ここねの手を取った。
「本当に……おねーちゃんは強引だよ。うまくできなくても、知らないからね」
「大丈夫、絶対に成功するよ。私が保証する」
ここねの言葉を聞くと、つきねはステージに立つことへの恐怖感が、少しだけ和らいだ。
おねーちゃんの言葉には不思議な力があるよねと、つきねはそう思った。
「カラオケの時、何回もデュエットにしようって言ってきたからなんか変だなーって思ってた。つきねの練習だったんだね」
ここねは少しだけバツが悪そうに頷いた。
「ばっちり似合ってる! 可愛い可愛い、つきね最高!」
「ほ……本当?」
本来ならば数か月後――入試に合格した後に着る音咲高校の制服に、つきねは身を包んだ。まねの制服なので少しサイズが合っていないが、ここねの言葉に嘘はない。
現在、ここねとつきねは体育館の緞帳の内側で待機している。
時間が来たら音楽は伴奏代わりにCDがかかるように、まねに頼んである。
「歌うのは二曲だけだから。思いっきり楽しもう!」
「うん」
頷いたつきねの瞳に不安の色は薄いが、緊張しているのは隣にいるだけでここねにも伝わってくる。
開演時間が来て、ゆっくりと緞帳が上がった。
ステージの縁の向こうには、大勢の音咲高校の生徒がいる。数百人はいるだろう。生徒たちの多くは、ステージ上に立つここねとつきねに注目している。
つきねはこれほど多くの人から、注目されたことがない。
さっきまで少しだけ和らいでいた緊張と恐怖が、再びつきねを呑み込んでいく。
脚が震える。息がうまくできない。
(あれ……? つきねは……なんでここにいるんだっけ……?)
つきねの思考が混乱する。目の前にはスタンドマイク。
歌う? こんなに大勢の人の前で?
怖い。怖い。怖い。怖い。そんなことできるわけがない。
脚が震えて力が入らなくなって、つきねはその場に座り込もうとした。
◇ ◇
その時――
ここねがつきねの手を握った。
ここねは妹に一瞬だけ視線を向ける。
『大丈夫だよ。私がここにいるから』
彼女の目はそう言っていた。
つきねの手にここねの温もりが伝わる。それだけで、つきねの脚の震えが止まった。
『ありがとう、おねーちゃん』
つきねも視線でそう伝えて、ここねの手を握り返した。
手を握ったまま、ここねたちは設置されたマイク前に進み、
「軽音部でーす! 今日は二曲だけですけど楽しんでもらえると嬉しいでーす!」
壇上から見ると、多くの生徒がいるが軽音部目当てというより、前の演劇部の出し物を見にきたという人が多そうだ。
出ていこうとする人たちの姿も見える。
緞帳が上がり切り、イントロが流れ始める。つきねと何度も一緒に歌った曲だ。
ここねが目配せすると、つきねもマイクを手にする。
(一人でも多く最後まで聴いていってもらう。私とつきねの歌を!)
ここねが歌い出すと、出ていこうとしていた人たちの足が止まる。
つきねが歌い出すと、壇上に視線が集まる。
二人の歌声が重なる。
ここねはつきねと歌うのが大好きで、今この瞬間、とても幸せを感じている。
人前でこうして歌うのは初めてだったのに、緊張していた体も自然とリズムに乗っていた。
つきねも同様らしく、ここねは思わず笑顔になる。
軽やかな旋律とともに鈴代姉妹の歌声が体育館に満ちていく。
桜ケ丘まねは、観客の生徒たちに混ざってデジカメを片手にフロアにいた。
軽音部の活動を記録に残すためだ。
楽しそうに歌い上げるここねとつきねをカメラに越しに見る。
撮影をしながら、まねは二人の歌声に聴き惚れていた。
「やっぱりここねちゃんの隣には、つきねちゃんがいないとね」
贔屓目に見ずとも、ここねの歌は上手い。けれど、つきねの歌声が加わると相乗効果が生まれる。
異なる二つの声だというのに、心にすぅーと入ってくる。
まねは中学時代から密かに二人のファンだった。
二人のファンはきっと増えると、まねは確信していた。
周りにいる生徒たちが歌に耳を傾け、体を揺らしている。
そして何よりも舞台上のここねとつきねがとても晴れやかな表情を浮かべているから。
歌い終わると、つきねたちを大きな拍手が迎えてくれた。
◇ ◇
家への帰り道を進む今でも、その音がつきねの耳に残っている。
陽はすでに傾いていて、隣を歩くここねの影は長く伸びていた。
空も遠くがほんのり朱色がかっている。
「もうほんとっ……楽しかった。もっともっと歌いたかったよ!」
姉は先ほどの興奮冷めやらぬという感じで、つきねも急な展開で驚きはしたが後悔はしていなかった。
「つきねも! 最初はどうしようって思っちゃったけど、すごく楽しかった……!」
つきねは本心をここねに伝える。
歌手になるのはここねの夢だけれど、つきねもここねと一緒に歌いたいと改めて気づいた。
つきねの中で姉と同じ音咲高校に入学したいという気持ちが今まで以上に強くなっている。
だが、今日の一件で心配も頭をかすめる。
「あ、でも……やっぱりバレたら問題になるんじゃ……」
「むしろ歌ってるつきねは可愛いし、見たら合格にするって!」
「もう、おねーちゃんは」
ここねは時々いい加減なことを言う。だが、そのポジティブなところにつきねは時々助けられたりもしている。
いつもと変わらない雑談していると、つきねは前から同世代くらいの少女が歩いてくるのに気づいた。
すれ違う瞬間、少女とつきねの視線が合った。
ただそれだけなのに、何故か彼女を視線で追ってしまうつきねがいた。
「どうしたの?」
姉に声を掛けられ、つきねはハッとして声の方を向いた。
「ううん、何でもないよ」
自分でも何だかわからないことをここねに伝えるのはやめておこう。つきねは本当にほんの少しだけ気になっただけだ。
「つきね、春からまた一緒に通学できるように頑張る。今日来てよかった」
ここねが嬉しそうに微笑む。
「軽音部、入ってくれる?」
「もちろんだよ」
つきねはこれからもここねと一緒にいたい。
そうすれば、学校生活も歌も、もっともっと色鮮やかに楽しくなる。
◇ ◇
ココツキオリジナル小説
『月ノ心ニ音、累ナル。』 好評連載中
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