◇ ◇
窓の外には白い月が浮かんでいた。
まん丸のお月さま。普通の満月。
平穏に暮らしていけば、これからも数えきれないくらい見ることができるはずだ。
視線を落とすと、鈴代ここねの手には開いたままの日記帳がある。
以前書いていたここねの日記。小さな鍵がついていて、昔ながらの鍵穴に差し込むタイプだ。
パラパラとめくってみると、たくさん書いてある日と少ししか書いてない日がある。
日記をつけなかった日もあったりして、たまに日付が飛んでいる。
「つき」という文字がやたらと目に付くのは仕方ないことだと、ここねは諦める。
もとよりプライベートなものだ。好きに書けばいいし、その時々に思ったことを書き残しただけだ。
ここねは大丈夫だと分かっていながら、もう一度窓の外を見る。
さきほどと変わらず、黒い夜空に白い月が一つ。
部屋の電灯を消せば、きっと柔らかい光が差し込むことだろう。
ここねが日記帳を閉じた。
……もうあの紅い月を見ることはないのだから。
◇ ◇
春のような陽気の中、河原で鈴代ここねは妹のつきねと四つ葉のクローバーを探していた。
どうしてだか理由もはっきりしない。
つきねは地面を覆うほど群生する白詰草を真剣に睨んでいる。見つけた者に幸福をもたらすと言われるクローバーを見つけるために。
その真剣な顔すら愛おしく思い、ここねは我がことながら姉バカを痛感する。
「……なかなか見つからないね」
「そ、そだねー……」
何となくつきねの顔を見てたから探してないとは言えず、ここねは下を向いて探す振りをした。
「おねーちゃんは四葉のクローバーの花言葉って知ってる?」
「幸運とか、ラッキーとかそんな感じ?」
ラッキーアイテム的なイメージから、ここねはそう答える。
すると、つきねは珍しく悪戯っ子っぽく微笑んだ。
「ぶぶー。おねーちゃんハズレ」
「花言葉とか詳しくないしー」
つきねは大事な秘密を教えてくれるかのように、そっと告げた。
「正解は……『真実の愛』なんだって」
◇ ◇
目を覚ますと、ここねは自室のベッドの中だった。
青々と一面に茂る白詰草も温かな陽だまりもなかった。あるのは自分の体温のぬくもりだけだ。
「真実の愛……かぁ」
ここねはまだ知らない気がする。歌詞でよく見かける言葉ではある。
興味はあるし、学校の男子から告白を受けたこともあるけれど、恋人がいたことはない。
(いつか私も……好きな人ができたらわかるのかな? キスしたりして……)
ふと自分の唇に指先をあてて、ここねは気づく。朝から何だか恥ずかしいことを考えている。あの夢のせいだ。
「だいたい私には最愛の妹がいるから、真実の愛もばっちり知ってる知ってるっ!」
声に出して意識を無理やり切り替えると、ここねは枕元に置いたスマホを手に取った。
三月九日。
今日はここねの中学校の卒業式だ。
時刻はあと少しで六時半。アラームが鳴るより早い。もしかしたら気づかないうちに緊張しているのかもしれない。
「寒……」
ベッドから出ると思わず声が出た。春だというのに朝はまだまだ寒い。
「さて、お寝坊さんの妹を起こしに行きますかー」
◇ ◇
制服に着替えて朝食を食べ終わると、ここねは再びつきねの部屋に向かう。
今度はつきねと一緒に。
部屋はつきねが買い込んだ雑貨が丁寧に並べられている。棚の中の陳列などはお店の一角かなと思ってしまうほどだ。
実用性よりも可愛らしさ重視の物も多く、つきねにぴったりだ。ちなみに趣味のゲーム機本体とゲームソフトはクローゼットの下のほうに仕舞われている。
「さぁさぁ、姫様。御髪(おぐし)を整えますので鏡台の前へ、どうぞ」
「……うん」
少しおどけて、ここねは妹を座らせる。
鏡には同じ中学校の制服を着たここねとつきねが映っていた。姉妹二人揃って着ることは今日が最後。
やはり寂しさはある。
いつものように、ここねは妹の髪に触れる。指で毛束を分けると、慣れた手つきで三つ編みに編んでいく。
それがここねとつきねの毎朝の習慣だった。
その日受けたくない授業のこととか、放課後は一緒に帰ろうだとか他愛のないやり取りをしながら。つきねの方からも色々と喋ってくれる。
しかし、今日はそれがない。鏡の中のつきねは少し俯きがちで、その顔は曇っていた。
どうしたの?とはここねは聞かない。
「せっかくだし、今日はカッコよく決めちゃおうか?」
「やるなら……おねーちゃんだよ。卒業式なんだから」
顔を上げたつきねの頬を一筋の涙がつたう。
「あ、あれ……? おかしいね、別に離れ離れになるってわけでもないのにね」
つきねが指で涙を拭いながら、無理に笑顔を作る。
離れ離れにはならない。だが、姉妹で一緒に過ごす時間は減ってしまう。変化は絶対に存在する。四月からはもしかしたらこうやって髪を編んであげられないかもしれない。
目頭が熱くなるのをここねはグッと堪えた。妹の前で泣くわけにはいかない。格好よくありたいから。
ここねはつきねの頭をそっと撫でた。……二人の心が落ち着くまで。
◇ ◇
つきねの髪を整え終えた後、ここねはつきねと一緒に家を出て通学路を歩く。
校庭に植えられた桜の花びらが道端に数枚か落ちている。学校までもう少しだ。
ここねが今まで何百回と通ったこの道。これからもこの通りを使うことはあるだろう。だが、中学校まで行くことはほとんどないはずだ。
「つきねと中学行くのも最後なんだよねー」
「うん……これからつきね独りで学校行くんだなぁ……」
つきねがボソッと呟いた。
「あ、ごめんね。また変なこと言って……」
入学して以来ほぼ毎日一緒に通っていたから、つきねがそう思うのは仕方ない気がする。
音咲高校に行くのはすごく楽しみだけれど、妹と同じ気持ちになった。
「そんなに学校に行くのが不安なら、家を出る時にぎゅ~~っておねーちゃんパワーを充電してあげよう!」
「それ、おねーちゃんがつきねとハグしたいだけだよね?」
「私もつきね欠乏症を予防できて、まさにウィンウィンの関係!」
「ウィンウィン……かなぁ? あ。見て、校門のところ。看板立ってるね」
美癸恋(みきこい)中学校という銘板の隣には、『卒業式』と書かれた白い看板が立っている。紙で作られた紅白の花で飾られていた。そんな看板を目の当たりにすると、改めて卒業を意識させられてしまう。
「そう言えば私、おねーちゃんの入学式の時、校門まで一緒に来た気がする。どうしてだっけ?」
「お姉ちゃんについてくー! ってつきねがダダこねたからじゃない?」
「あ! 思い出した。おねーちゃんがすごく緊張してたからついていったんだよ」
「そうだったかな~? 覚えてないな~?」
そうとぼけながら、しかしここねも覚えていた。姉がガチガチに緊張していることを心配したつきねが、両親と一緒についてきてくれたのだ。
その時のつきねはランドセルを背負っていて、だいぶ背が小さかった。
しかし今、隣を歩くつきねは、ここねと同じくらいの背丈だ。まだかろうじてここねは、背の高さを追い越されていない。なんとか姉の威厳は保てているはずだと思う。
「それじゃあ、おねーちゃん卒業式頑張ってね」
「頑張るほどじゃないけどねー」
◇ ◇
いつもより昇降口までの距離が短く感じられた。
自分の下駄箱に向かうつきねの背中を眺めながら、小さな日常の一コマも最後なんだとここねは強く思う。
つきねが音咲高校を受験して合格するものと仮定しても、一年間はバラバラの学校に通うことになる。
あって当たり前のものが欠けてしまう。
自分自身を半分失うような――そんな不安がここねの胸の奥に少しずつ溜まっていく。
「こんなこと考えても仕方ないのにね……」
ここねは不安を消し去ろうと左右に小さく首を振る。
「ここねちゃん、おはよー」
「ぅおわーっ!?」
ここねが振り返ると、同級生の桜ヶ丘まねが怪訝な顔をしていた。
「驚きすぎでしょ……それより、今なんか言ってなかった?」
「ううん、何にも」
「ふーん」
まねの疑いの視線がここねを突き刺す。
「とりあえず教室行こ行こ……! クラスメートと過ごす時間もわずかだ!」
まねのおかげで、しんみりした気分が何処かに行ってくれた気がして、感謝の気持ちを込めながら急かすように彼女の背を押した。
「え、なになに……押さなくたって行くから~~」
卒業式はプログラム通りつつがなく進む。
呆気なささえ感じてしまうくらい順調だった。
卒業証書を受け取るため、壇上に上がる時も、緊張や感慨は思ったより小さかった。
ここねの胸には在校生につけられた「卒業おめでとう」のリボン。体育館には拍手が響いていた。大きな拍手に送られ、卒業生が色とりどりの花飾りがついたアーチをくぐっていく。
その中の一人であるここねは、視線を向けた在校生の席につきねの姿を見つけた。
つきねもニッコリと笑顔を返してくれる。
朝に見たのとは違う柔らかな微笑み。大好きな妹の優しい表情だった。
すぐにその笑顔を見ることはできなくなり、胸の奥がキュッと締め付けれた。
◇ ◇
体育館から教室に戻ると、担任教師からお祝いの言葉が送られる。
話をしている最中に先生が泣き出すものだから、クラスのみんなで慰めることになってしまった。
この後クラスの全員で打ち上げに行くことになっているが、今ここねは同級生たちと一旦別れ、廊下をゆっくりと歩いている。
ここねが三年間通った中学校の校舎だ。
当然色々な思い出があるけれど、ここねが鮮明に覚えているのは友人と過ごした時間よりも家族であるつきねと共にした時間だった。
今日限りで会わない友人もいるかもしれないというのに、という気持ちがないわけではない。
自身のある種の薄情さよりも気にかかる問題がここねの中に居座り、主張する。
(つきねのことばかりじゃん……私!?)
しかし、それが今のつきねには解決しようのないものだということも分かっていた。
ふとここねの目に入る風景のそこかしこに、つきねとの思い出がある。
――今歩いている廊下。
昨年の文化祭、学年も違うのに二人の自由時間を合わせて一緒に回った。
――廊下の窓から見える校庭。
借り物競争で「あなたが可愛いと思う人」というお題で、ここねは迷わずつきねを連れてゴールした。
――この先の何の特徴もない廊下の角。
些細なことでケンカしてバラバラに登校したことだってある。
ケンカ中ですれ違った時に二人して顔を逸して無視した。
――今は卒業生やその両親の姿が多く見られる校門。
家に帰ったら仲直りしようと思った日の放課後、つきねが待っていてくれた。
「おねーちゃんの靴……まだあったから」
あまり自分から誘うことのない妹が、仲直りにカラオケに行こうと言ってくれた。
思いっきり歌った後は、もちろんつきねの好物のハンバーガーを食べて帰った。
写真に残したものも、残すほどではなかったものも、ここねにはいくらでも思い出せる。
ただ、この場所でつきねとここねの新しい思い出ができることはない。
ここねは廊下の角を曲がったところで、思わず小さな声を漏らした。
「あ」
声が重なる。
◇ ◇
すぐ側につきねが立っていた。つきねも一瞬少し驚いた表情を浮かべていたが、
「卒業おめでとう、おねーちゃん」
「ありがとう~! 本日鈴代ここねは中学校を卒業しちゃいました~!」
元気いっぱいな感じで応じると、ここねは疑問を口にした。
「でも、どうしてこんなところにいるの? つきねの教室こっちじゃないでしょ?」
「なんとなくだけど、こうしてたらおねーちゃんに会える気がして」
「ふふ、何それ? 普通教室に来ない?」
偶然会えて、ここねはなんだか楽しい気分になっていた。
「そうだけど、こうして会っちゃってるし……それにね」
「ん?」
「教室に行ったら、まね先輩たちいると思って。おねーちゃんに……伝えたいことがあるから」
つきねが真剣な面持ちでここねの瞳を見つめてくる。
真摯な眼差しと緊張で微かに震えた声が漂わせるこの雰囲気に、ここねは既視感があった。
以前に告白してきた同学年の男子と同じだ。そんな気がした。
「待っ……つき――」
「毎日、起こしてくれてありがとう」
つきねが言葉を続ける。
「毎朝、髪の毛きれいに編んでくれてありがとう」
もう一つ言葉が重なる。
「いつもどんな時でも、つきねの味方してくれて……ありがとう」
それはどれも姉であるここねにとっては当たり前のことだ。
しかし、つきねにとってはとても大切なことであるかのように。
「…………」
「いきなりでビックリしたよね。でも、絶対伝えたくて。家だと恥ずかしくて言えない気がしたから……」
照れくさそうに一度視線をそらすつきねだが、またすぐ笑顔を向けてくる。
「高校生になったら、おねーちゃんには夢に向かって頑張ってほしいんだ。一緒の時間は減っちゃうと思うけど……つきねは大丈夫だから!」
ここねの歌手になるという夢を応援してくれる。そのために軽音楽部を作って活動するというここねの目的をつきねは誰よりも知っているから。
嬉しい。大好きなつきねが後押ししてくれる。
絶対に夢を叶えたい。
それでも――
「おねーちゃん?」
ここねは思ってしまった。
――つきねとずっと一緒にいたい。
◇ ◇
通う学校が変わるただそれだけで、ここねがつきねと離れ離れになるわけではない。
それなのに、涙がこみ上げてくる。
今度は堪えられず、ここねは涙を流した。想いがポロポロと零れ落ちる。
「卒業なんて、したくないよ……」
ここねの小さく震える体をつきねの細い腕が包んでくれる。
「つきね……一緒がいい……」
精いっぱい強く。けれど優しく。
「……おねーちゃんは、泣き虫だなぁ」
少しだけ涙ぐんだような、とても柔らかい声音がここねの耳に触れる。
つきねに抱きしめられて、ここねの震えは治まっていく。
「……つきね……」
「約束」とつきねは小さな声で言った。
「つきねはすぐに追いつくから、また同じ学校に行こうね」
「うん……待ってるから」
「うん」
涙が止まった頃、そっとつきねがここねの体から離れる。
ここねはつきねの少し困った顔を見て、気恥ずかしさでいっぱいになる。
(いつもと同じようにしなきゃ……って思ったのに。泣かないようにしようって思ってたのに……)
妹の前で涙を流して、妹に抱きしめられて、慰められてしまった。
きっと目も赤くなっているに違いない。ここねは顔の熱さも感じていた。
「えっと……つきね?」
「大丈夫だよ、おねーちゃん」
妹のフォローがここねの心にチクチクと突き刺さる。姉の威厳なんてあったものではない。
ここねは挽回の手段を考え始める。
すると同時に、
「あ、いたいた~。ここねちゃーん!」
まねの声が廊下に響いた。
「もうー、なんでスマホの電源切ってるの~。打ち上げの会場に行くよ~! ほらほら早く!」
ここねはつきねを振り返る。
「つきねのことなんて気にしないで、行ってきなよ。その前にこれ」
つきねがハンカチを差し出した。
「ありがとっ!」
目じりをハンカチでふき取ると、
「分かったー! 今行くー!」
ここねはまねのもとに駆け出した。
つきねは少しずつ小さくなっていくここねの背中に言葉を投げかける。
「中学校、おねーちゃんのおかげで楽しかったよ」
ここねの姿が見えなくなるまで、つきねはその場から動かなかった。
(つきねも、おねーちゃんと同じ気持ちだったよ)
いつか姉離れする日がつきねにも来るかもしれない。けれど、その日はもっともっと先のことだろう。
つきねは右手を優しく握る。
その中には青々とした小さな四葉のクローバーがあった。
◇ ◇
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